
ディ・ポップスグループは、「社会に変革をもたらす多数の成長ベンチャーを輩出する」というミッションを掲げ、「誠実・謙虚・感謝の心で、共に学び、共に成長する」をバリューとしています。
アドバイザーを務める杉原は、昨夏「ユニコーンTシャツを着て日本百名山100座を踏破する」という目標を掲げ、これまで全国の山々を登り続け、執筆時点で56座に登頂しました。本連載では、その挑戦の中で経験した成功や失敗、そこからの学びを、ベンチャー経営や組織運営になぞらえながら考察しています。
この挑戦は後半に入りましたが、昨年までは力不足で登れなかった山にも徐々に挑み始めています。それにつれて、諦めたくなるような厳しい山も増えてきました。ベンチャー企業で勤めていた時にも、何度も諦めたくなるような難しい局面は多々ありました。あそこで諦めていたら、その後の人生は今とは違うものになっただろうな、と思うと同時に、無謀な行動や慎重さを欠いた取り組みは命取りになるという事も経験してきました。
第五部では、ビジネスでも登山でも、「不撓不屈(ふとうふくつ)の強い心」と同時に、「慎重さや臆病な心」も併せ持たなければならない、ということについて考えてみます。
13. 「もう無理」と「あと一歩」は紙一重
~不撓不屈の精神で困難に立ち向かえ~
まずい・・頭が熱い。吐き気がする。脚に力が入らない・・。
スマートウォッチの心拍数の数字は170/分を超えている。明らかに異常な数値だ。
8月初旬、山形県・朝日連峰の主峰、大朝日岳(おおあさひだけ)に挑戦した日のことでした。
山頂まであと1kmほどの急登を前にして、最後の水場の休憩ポイントで、力尽きてしまいました。その1時間程前には両足の太ももが痙攣を起こし、そしてこの場所で熱中症と思われる症状となって、ついに体が動かなくなってしまいました。
「体力的難易度が非常に高い上級者向けの行程」と言われるルートで挑戦した登山は、まさに苦行となりました。その日は全国的に気温が高く、早朝に出発した時点ですでに高温多湿な天候でした。登り始めて早々に滝のような汗をかき、アップダウンの激しい、険しい山道を延々と歩き続けました。
そして4時間後、冒頭の症状となってしまいました。
すれ違ったベテランの登山者からは、「山は逃げませんから」と、下山を勧められたりもしました。しかし、撤退を決める前に、まずは冷静に、回復のためにできるだけのことをしようと決めました。塩分補給のためみそ汁の素とおにぎりを水で喉に流し込み、湧き水で濡らしたタオルで頭を冷やしながら、岩場に横になって休むことにしました。
そして30分を過ぎた頃、体温も心拍数も下がり、だいぶ楽になりました。倒れた時は「もう無理だ」と弱気になりましたが、体調と共に気力が戻り、その考えは「あと一歩。あと少し、歩を進めてみよう」に変化しました。
もちろん、体調が回復しなければ撤退すべき場面です。不撓不屈とは、危険を無視して前進することではありません。その点については後ほど改めて触れます。
しかし、この時は休息によって体調が回復し、もう一度前に進める状態になりました。
その後、一歩一歩を積み重ね、ついに難度の高い大朝日岳の山頂に到達することができ、その時は、嬉しさと達成感、そして恐怖から解放された安堵から、男泣きしてしまいました。

(足が攣り、熱中症と思われる症状にも見舞われたが、休憩と回復を経て、登頂を果たした)
あの時、重い足を持ち上げながら、何を考えていたのか。
それは、「これまでも仕事では数々の難局を乗り越えてきた。逃げ出したくなるような状況や、『もう無理だ』と諦めたくなるような状況。その度に、不撓不屈の強い心で乗り越えてきたじゃないか。あれらの苦労に比べたら、ここは何とかなる。ベンチャー魂の踏ん張り所だ!」ということでした。
PHS事業会社の立ち上げ期、徹夜続きの開業準備、そして開業直後にはアンテナからの電波が全停止した事故が発生し、担当する代理店から殺到するクレームへの対応に追われました。
Googleがまだ日本で市場シェア30%ほどだった頃には、当時日本最大の検索ポータルサイトからシェアを奪うべく、パソコンメーカーや主要ポータルサイトとの事業提携交渉に奔走しました。交渉条件を巡ってチキンレースのような状況となり、毎週のように日本から深夜、本社の役員会議に案件を上申し続けたこともありました。
あの時、途中で投げ出したり、苦しい状況から逃げたりしていたら、その後の充実した人生はなかったと思います。
読者の皆さん、特に大きなリスクを背負って挑戦している起業家の皆さんは、きっとこれまでに数々の難局に直面してきたことと思います。
それぞれの記憶の中に、「あの時、諦めなくて良かった」「あの難局を乗り越えたから今がある」と思える経験があるのではないでしょうか。
世の中には、ベンチャー企業、一般的に言うスタートアップが無数にあります。その多くが、その時代を反映した成長領域や事業モデルで製品やサービスを市場に送り出そうとするため、必然的に類似した企業も数多く生まれます。しかし、その中で成長を続け、生き残るスタートアップはごく僅かです。成功したベンチャーと、途中で消えていったベンチャーを分けたものは何なのか?
経営者の経営力、商売センス、資金調達力、人脈、そして運。様々な要因があると思います。その中でも、社長や経営チーム、そしてそこで働くメンバー全員が持つ「諦めない強い心」、すなわち「不撓不屈の精神」は、ベンチャー企業の成否を分ける大きな要因の一つだと思います。
困難な状況が目の前に立ちふさがった時、「もう無理だ」と思うことは誰にでもあります。しかし、本当に限界なのか。それとも、あと一歩を踏み出せば、見える景色や生み出される結果が変わるのか。
「もう無理」と「あと一歩」は、紙一重です。
困難に直面した時こそ、それまで積み重ねてきた努力と、その人や組織が持つ底力の真価が問われます。そこで簡単に諦めるのではなく、「不撓不屈の精神」でもう一歩だけ前へ進んでみる。その一歩が大きな壁を乗り越えるきっかけとなり、次の成長へ、そして成功へとつながっていくのではないでしょうか。
14. 大胆な冒険心と慎重さを併せ持て
~臆病であることを恥じるな~
13章では、「決して諦めるな」「不屈の精神で進め」と述べました。しかし、それとは一見相反するように聞こえる、とても重要なことがあります。
経営者やビジネスリーダーには、大胆に突き進む冒険心が必要です。しかし同時に、危険を恐れる臆病さや、立ち止まって考える慎重さも併せ持たなければなりません。
雨が降りしきる空が、突然、真っ赤に燃えました。
標高2400m。北アルプスの剣沢小屋から見た夕焼けです。山小屋のスタッフの皆さんも、「ここまで赤い夕焼けは見たことがない」と言います。
美しい。しかし私は、その異様な赤さに、なぜか恐ろしさを感じました。
翌日、私は日本最難関の一つとも言われる剱岳(標高2999m)に挑戦する予定でした。
その日は朝から富山県各地で大雨や洪水、土砂災害に関する警報が発令されており、立山に到着した時点では、激しい雷とともに打ち付けるような雨が降っていました。
それでも、「翌日には雨は止み、曇り空に変わる」という天気予報を信じ、強い雨の中、山小屋までは到着したのでした。そして夕食前、山小屋で横になりながら考えました。
「何としてでも登るぞ」「諦めるな、根性だ」「不撓不屈の精神だ」
ところが、その後、先ほどの真っ赤な夕焼けを見た時のことです。
確かに幻想的で、とても美しい。しかし、私には、それが警告のように感じられました。
「大胆さと無謀さは違うぞ」「明日は本当に危険な日だぞ」「慎重に決断せよ」
という山の神様からの声が聞こえてきた気がしました。
そして、その真っ赤な空が、私には「進むな」という赤信号のように見えたのです。
結局、翌朝になっても予報のような曇り空には変わらず、雨が降り続いていました。
剱岳は、ただ山道を歩いて登る山ではありません。岩壁を登り、鎖を掴み、切れ落ちた岩場を慎重に通過しなければならない場所があります。前日から降り続いた雨によって岩や鎖が濡れていれば、危険度は大きく増します。
その状況から、山小屋に宿泊していた登山者の中にも、登頂を試みる人は一人もいませんでした。周囲の判断も踏まえ、私も迷うことなく登頂断念を決断しました。

(中央の画像で雲に隠れている山が剱岳。翌朝も雨が止まず、登頂中止を決断した。)
もし雨が止み、曇り空になっていたら、どのような判断をしていただろうか。そう考えると、今でも少し怖くなります。雨が降っていなくても、前日からの大雨で岩は濡れ、手で掴む岩も、足を置く岩も、そして頼りにする鎖も滑りやすくなっていたはずです。
そこで「せっかくここまで来たのだから」「何としても登りたい」と無理に進み、事故に遭っていたら、百名山への挑戦そのものを断念せざるを得なくなっていたかもしれません。
下山して冷静になった時、改めて思いました。
「大胆な冒険心」と「無謀な行動」は、全く違う。
そして、もう一つ。
危険を恐れる「臆病さ」があるからこそ、次の挑戦につなげることができる。
13章で触れた大朝日岳では、休息によって体調が回復したことを確認し、「あと一歩、進もう」と決断しました。一方、今回の剱岳では、状況を見極めた上で「今回は退こう」と決断しました。
進む勇気もあれば、退く勇気もある。どちらを選ぶべきなのかを冷静に判断することこそが、本当の意味での勇気なのだと思います。
事業でも同じようなシチュエーションはあると思います。
法改正や技術革新、世界情勢の変化などによって、業界に突然逆風が吹き荒れることがあります。そのような時に、「一度決めた方針だから、最後までやり続けるんだ」と経営者が意固地になり、会社全体を危険な方向へ突き進ませれば、取り返しのつかない事態を招くことがあります。
昨日まで正しかった戦略・戦術が、今日も正しいとは限りません。(第三部参照)
だからこそ経営者には、前に進む大胆さだけではなく、環境の変化やリスクを敏感に察知し、「危ない」と思った時には立ち止まる臆病さも必要なのです。(第四部参照)
実際、優れた経営者の著書や発言を見ても、「臆病さ」を経営者に必要な資質として捉える考え方があります。
ブリヂストン元CEOの荒川詔四氏は、著書のタイトルそのものを『臆病な経営者こそ「最強」である。』とし、小心さや臆病さこそ、不確実な世界を生き抜くための武器になると説いています。また、ソフトバンクグループ創業者の孫正義氏は、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大によって市場が混乱し始めた時、X上で「嵐の前では臆病だと笑われるくらい守りに徹した方がいい。それが本当の勇気だと思う。」と発言しました。
百名山への挑戦も、ベンチャー企業の挑戦も同じです。ただ楽観的に「何とかなる」と考え、豪胆に突き進むことが勇気なのではありません。常に最悪の事態を想定して備え(第4章)、リスクや失敗の可能性を恐れ、危険な兆候を感じたら立ち止まる(第10章・第11章)。そして、それでも進むべきだと判断した時には、大胆に一歩を踏み出す。
経営者やリーダーに求められるのは、「大胆な冒険心」か「慎重な臆病さ」のどちらかではありません。その相反する二つを併せ持ち、状況に応じて「進む勇気」と「退く勇気」を使い分けることが、長く挑戦を続けるために必要なのだと思います。
15. 「ここまで来たのだから」に惑わされるな
~サンクコストを捨てる勇気を持て~
もしアタック予定の朝、雨が止んでいたら、私は「せっかくここまで来たのだから」と考えたかもしれません。
そして実は、この「せっかくここまで来たのだから」という心理こそ、冷静な撤退判断を狂わせる、もう一つの大きな要因です。
何ヶ月も前から計画を立て、2ヶ所の山小屋を予約し、自宅から遠く離れた富山まで夜行バスを乗り継いでようやく辿り着き、それぞれに相応のコストをすでにかけてきました。そして標高2400mの山小屋まで、雨の中、重い荷物を背負って歩いてきました。
「費用と時間をかけて、ようやくここまで来たのに、山頂を目前にして帰るのか?」
そんな考えが頭の中を巡りました。
経済学や経営学では、このような「すでに支払ってしまい、取り戻すことのできない費用」を「サンクコスト(埋没費用)」と呼びます。
ベテランの登山家であれば容易に判断できる悪条件の中、まだ経験の浅い私は、大胆な冒険心――あの時は無謀な挑戦心――と共に、この「サンクコスト」が足かせとなって、即断を妨げていたのでした。
経営の現場、特にベンチャー企業の経営においては、このサンクコストが判断を鈍らせる場面が数多くあります。
不採算事業に関して、撤退やピボットをするか否かの判断。新規事業や新プロダクト開発において、クリティカルな問題が発覚した時のリリースの判断。非常に優秀ではあるものの、自社の理念や価値観との一致に疑問がある候補者を採用するか否かの判断。
その時の経営陣の議論の中で、「ここまで既に投資したのだから」「これだけ苦労したのだから」「時間をかけてきたのだから」と、サンクコストを意識し過ぎるとどうなるか?
不採算事業から撤退できず赤字を拡大してしまったり、潜在的な問題を抱えたまま新規事業のスタートや新商品のリリースをしてしまったり、組織の価値観に合わない人材を採用し、後に大きな軋轢を生んでしまったりと、取り返しのつかない経営判断につながることがあります。
このようなことにならないよう、重要な決断をする際には、自分たちがサンクコストの罠にはまっていないかどうかを、経営者は特に意識し、冷静に判断をすることが求められます。
諦めてはいけない時に諦めないこと。そして、諦めるべき時には、それまで費やした時間やお金、努力に囚われず、潔く撤退すること。その両方ができてこそ、本当の意味で「不撓不屈の精神と、慎重な判断力を併せ持つ」ことになるのだと思います。
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以上、【百名山から学ぶベンチャー経営論】の第五部でした。
この挑戦も一年が過ぎました。タイトルは「百名山から学ぶ」としていますが、実は裏を返せば、私の想いとしては、「これまでのベンチャー経営の経験を登山にも適用して取り組めば、登山の素人でも短期間で百名山を踏破できる、ということを証明してみよう」というものでした。これまでのところ、大いにその経験が活かされていると思います。
次回は、「失敗から学び、成長を続ける」 をテーマに、場数を踏み、鍛錬を積み、一つ一つ学びながら、自らの成長を続けることについて考えてみたいと思います。
なお、シリーズのこれまでの記事をまだお読みでない方は、こちら↓をぜひお読みください。
第一部「頂を決め、準備する」
第二部「計画は綿密に、実行は地道に」
第三部「戦略・戦術・戦闘」
第四部「アンテナを張り、センサーを研ぎ澄ませ」
D-POPS GROUP アドバイザー 杉原眼太
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