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【グループ会社インタビュー】 株式会社TFN 長岡 守 社長 ~前編~

  • INTERVIEW
  • グループ企業
2024.12.13

D-POPS GROUPでは、現在約23社のグループ会社が仲間となっています。
今回は、2018年にグループ入りした株式会社TFNの長岡 守 社長へ、インタビューしました。

◆設立経緯

-杉原-
今回は、TFNの長岡社長にインタビューさせていただきます。宜しくお願いします。

TFN社は設立から9年が経ちますね。まず最初に、長岡社長がTFNを設立された経緯や、それまでの経歴などを簡単に教えていただけますか?

-長岡-
はい。TFNを創業したのが2015年です。ソフトバンクC&S社に勤めていた2011年ぐらいに初めてクラウドSIMの技術を見ました。そのときに、 なんとか社内ベンチャーの立ち上げなどで事業ができないか色々検討をさせてもらっていたんですが、1度は諦めました。

その後2013年か2014年ぐらいに、もう1回そのクラウドSIMに出会うことがあって、 どうしてもクラウドSIMを事業としてやってみたいっていうのが強くありました。 あと、やっぱり起業家になりたいという思いの2つが合わさって、サラリーマンをやめて、自分で立ち上げたのが創業のきっかけです。

なので、今は通販をメインに事業をやっていますが、当時は通販をやりたいという考えではなく、クラウドSIM事業をやりたいという想いで、会社を辞めたのが1番です。

-杉原-
そうなんですね。ディ・ポップスグループにグループ入りしたのはいつ頃なんでしょうか。

-長岡-
2018年です。

-杉原-
創業当時はクラウドSIMから始まったとのことでしたが、いつ頃から通販事業等を始められたんでしょうか。

-長岡-
もともとなぜクラウドSIMに出会ったかというと、ソフトバンクC&Sの流通を担当していて、サラリーマン時代は結構長く、いろんな物販をやる上での商社的な役割をしてたので、とにかくたくさんのメーカーさんが提案に来るんです。

その一環として、クラウドSIMに出会ったというところなんですけど、あわせてスマートフォンのケースやPCサプライなどいろんなメーカーさんとも取引をしていたので、クラウドSIMがメインだったんですけど、プラスアルファ、通販も流行るかなという想いもあったので、じゃあこの事業もやっちゃえ!と思い、クラウドSIMとあわせて立ち上げました。

-杉原-
なるほど、ではソフトバンク時代の付き合いのある方たちが応援してくれたんですね。

-長岡-
そうです。独立してみたら、クラウドSIM以外にもたくさんの取引先が応援してくれて、その中には、9年前起業したとき以前からお付き合いの会社が、今もあるんです。

当然自分で中国に行ってものを作ったりとか、直接やり取りをしたりもできました。なので、もちろん新しいベンダーさんもたくさんいらっしゃいますが、国内の仕入れもそうなんですが、海外から直接買い付けるなど、その当時に知り合ってたところから紹介いただくこともあります。

◆事業概要

-杉原-
それはすごく大きな資産ですね。
では続いて、TFN社の事業概要を簡単にご紹介いただけますか?

-長岡-
今現在は、ほぼ通販事業1本になっています。商材としてはスマートフォンのアクセサリーをターゲットとしてやっています。

冒頭でお話していたクラウドSIM事業をやっていた累計期間は6~7年でしたが現在はピポットして通販事業に注力しています。

創業当時は、クラウドSIMと通販の事業で会社を立ち上げました。通信事業をやるのって、莫大なお金がかかります。ただ僕も起業家としてかなり若かったので、 1番最初の資本政策がうまくいかなかったんです。その時、 現在ディ・ポップスグループで常務取締役を務める渡辺さんに、個人的にTFNに取締役としてジョインしていただき、事業のコンサルをお願いしていました。その一環で、この通信事業をよりグロースさせるために、ディ・ポップスグループに入らないかという打診があったんです。

当時はディ・ポップスグループのグループ会社もほとんどなく、生え抜きの社長たちはいましたが、外部でのグループ入りはほぼ初めてでした。

-杉原-
そうだったんですね。現在、ディ・ポップスグループが目指す、ベンチャーエコシステム構想のきっかけだったのかもしれないですね。

-長岡-
そうですね。そうやってディ・ポップスグループのグループ会社としてクラウドSIM事業を行っていたんですけど、今後どうやってグロースさせていこうかとなったときに、後藤社長からレンタルWiFiを取り扱う会社のM&Aを提案されました。その時印象的だったのが、本を3冊くださって、その本がPMIに関する本などだったんですね。そのあとM&A先の会社の社長と会って、あとは自分で判断しなさいという雰囲気でした。

当時は正直無茶ぶりだなと思ったんですが、本をすべて読んで、自分で交渉をし契約書も作成して、グループからの借り入れではありますが資金調達も自社で行って、無事に契約となりました。

そして、その半年後ぐらいに、 元々ディ・ポップスグループにあったレンタルWiFi事業のany-fiを引き継いで、渋谷の宮益坂でレンタルルーターの店舗をやっていました。そこからだんだん、WiFi事業を加えていきました。

逆に通販の方は、創業のころから着々と商品ラインナップを増やしていました。

うちの会社の特徴としては、企業文化としてDXやITを率先して取り入れていたので、早い段階から通販のシステム開発を自社で行っていました。それが成長の支えになっていたなと感じます。

-杉原-
そのあとコロナになるのでしょうか。買い取り事業はコロナ中に始められたと伺いました。

-長岡-
そうです。コロナ前までは、通信と通販が順調に成長してくれて、通信事業をM&Aして、まあまあ数字も良かったという時に、コロナになりました。

M&Aして1年経たない頃だったので、コロナになって1ヶ月で4000万~5000万くらいPLが赤字になって、もう、本当にどうしていいのかわかんなかったですね。

今でも覚えていますが、後藤社長に電話して、会社が大きく赤字になってもうリストラも含めて考えなきゃいけないという相談をしたんです。そのとき後藤社長に言われたのが、「人を切る社長なんだね、 それしかできないんだね。」というようなことを言われたんです。

いや、僕はグループのためにという概念で、 どうやってPLを黒字にするのか考えた一環のリストラでしたが、 後藤社長は多分見てる視点がちょっと違ったんでしょうね。リストラをすることは多分簡単だし、PLをすぐに黒字にすることも簡単ではあるとは思うんです。

ただ、どちらかというと、一度リストラをしたら、リストラした社長にしかならない。 それが一生ついてまわるけど大丈夫なんだよね、という。社員からもリストラした社長だと思われる。なので、逆にどうやってグロースさせるかということを考えた方がいいんじゃないかという風に言っていただいたんです。

幸い通販事業の方は、コロナの時の巣ごもり需要でそれなりに売れたんです。なので通信事業が本当にほぼ0になった状況ではあったんですが、なんとか食いつなぐことができたという状況でした。ただ、相当苦しかったです。

とにかくもう何か新しいことを始めるしかなかったんですけど、 1番早いのは、通販で思いっきり製品を増やしていくという選択肢だったんですよ。 当時、渡辺さんと仕入れ先をどうにか増やしていこうとか、仕入れ先を増やす=家電を取り扱ったり、やっぱり有名メーカーの製品をどうやって引っ張るかというのに注力していくんですけど、やっぱりいろんな人に紹介してもらっても、口座なんか一切開かないんですよ。やばいなと。

でも、世の中で家電を売ってる人って結構いるんですよ。だからなにかあるんだろうなと思っていたんです。

そんなときに、本当にたまたまお酒の席で、相手の人が「ポイ活やってるんだよね。」という言葉が僕の耳に入ってきたんです。「ポイ活って何?」ときいたら、「物を買ってポイントを得て、それをメルカリなどで売るということをやっている」と聞きました。「すごいね。それで月いくら儲けてるの?」ときいたら、「50万円ぐらいですかね」みたいなことをぽっというんです。この子が10人いたら、俺の会社復活できんじゃんと思って、そこから調べたんですよ。

そこで今のお取引先様であるとか、通販会社で家電を取り扱っているいろんなとこに直接現地を回って、何時間か張り付いてずっと見てて、どこから納品されてるんだろうとずっと見ていたら、通常の仕入れ先じゃないなということに気がついたんです。そこからSNSなどでいろんな情報を掘り下げていってたら、これ買い取りじゃんっていうところにたどり着いちゃったんです。

ここからは早かったですね。1週間後にはウェブサイトが完成してました。そこでやるぞー!となりました。

そこからオンライン版の買い取りをはじめて、もう当時、店舗を借りるお金もないんで、そのまま本社でやり始めたんです。それで一気に人気になったんですが、本社のオーナーさんから普通借家の事務所は店舗にしてはいけないので、このまま続けるなら出ていくか店舗を借りるかにしてくださいと言われて、すぐに店舗を借りました。

店舗を借りたあとから、買取事業が一気に1年間で18億円ぐらいにグロースしたので、 ディ・ポップスグループの支援もあって、 なんとか黒字化しました。

ただ結果的には、買取事業も実は今年の2月でもう閉じるんです。そもそも薄利だったので。ただ、一旦コロナを脱するための事業としては、運が良かったと言うしかないでしょうね。

-杉原-
運だけで片付けちゃいけないと思いますよ。なんとしてもこの逆風を乗り越えるために、脳みそがちぎれるほど考えて考えて、観察して、素早く実行して 立ち上げた事業で、何とかして乗り越えられた。素晴らしいですね。

そして、軌道に乗った買取事業をこれからも続けていけばいいじゃん、と考え てしまうのかなと思いきや、思い切ってやめる決断をした。

-長岡-
そうですね。これは後藤社長から紹介していただいた他の経営者の方を見ていても、やっぱり最後は、売上よりも利益だし、それで社員に還元していい会社にしていかなきゃいけないと考えた時に、やっぱり買い取りとかも、結局は自社のサービスではないんですよね。例えば取引先の状況が変わってくると、当然その変化に自社もあおりをくらってしまう。やっぱり最終的には自社のサービスであるとか自社の製品というのに寄せていきたいという想いが自分の中でも願望としてありました。なので、どんどんピポットすることを決めていくという形です。

◆自社開発について

-杉原-
その頃からなんでしょうか。自転車やスーツケースなど、 いろんなものを自社で開発、制作されていましたが、いつ頃から通販の商品を作り始めたのでしょうか。

-長岡-
実は創業当時からやっていました。過去には体重計や美容ローラーなど、ほんとにずっと商品開発をしていて、もともと何かを作ることは大好きだったので、 今でも続けています。自転車を作ったきっかけは、何の製品を作ろうかとなったときに、社内でたまたま自転車が欲しいという人がいただけなんです。それで作ってみたら当たったという感じでした。

-杉原-
そうだったんですね。実際いろいろな事業をやる中で、TFN社はたくさんの経験とノウハウを積み上げてきたんですね。そんなTFN社の強みはどういうところでしょうか。

-長岡-
運用やフローの構築ですかね。フローを構築してシステムに落とすということをとにかく徹底してやっているので、やっぱそこが1番強いと思っています。

-杉原-
通販のシステムを自社で開発されているとのことでしたが、その特徴について教えていただけますか?

-長岡-
そうですね。今通販の店舗数が、もう12店舗ぐらいになっているんです。それを運用上、売上を即時に集計したりとか、 スピーディーに商品登録をしたりできるシステムって、確かに世の中にはあるんですけど、やっぱり使い勝手がいい部分・悪い部分と、いい部分が、すごくあったんですよね。例えば、その外部システムだと、使えはするんだけど、どうしても80点しか取れないという状況だったんです。だったら自社で全部作り上げた方が早い。

それを創業の時から、1番最初はシステムを開発するというよりは、MicrosoftのAccessベースで自分で作ってたんですけど、やっぱりもうこれが追いつかなくなってきたので、システム開発を自社でやっていこうと決めました。システムに投資して自動化した方が、絶対伸びていく過程の中で得だなと。

そして、将来的には会社にたまった自社開発のノウハウをソフトウェアとして売るのか、もしくはコンサルとして他社に入るのかなど、いろんなことに繋がるかなと思ったので、システム開発にも注力してきました。

-杉原-
強みを活かして事業を広げてきたんですね。それで紆余曲折があって、コロナ禍の荒波を乗り越えて、 やっとこの嵐が収まった。そこで深く考えて今年戦略をバシッと定めて通販事業のみという形になったんですね。

-長岡-
はい。僕自身アイデアを出すことが好きだし、 やると決めたら実行も早いんです。ただ、やっぱり事業があまりにも分散しすぎだなということは自分の中でずっと考えていました。

僕はどちらかというと、20億円の事業を3つ作って60億円にするよりも、やっぱり1個の事業でどうやって60億円になるかということをもっと考えていきたい、ランチェスターでやっていきたいと考えていました。その考えがより濃くなって、 元々1番得意なものってなんだろうと考えると、通販・物販だったんです。

それに集中するために、今回通信事業の売却を決めました。

 

☆インタビューアー
D-POPS GROUP アドバイザー 杉原 眼太

【株式会社TFN】
代表者:代表取締役 長岡 守
所在地:東京都中央区東日本橋2丁目27番8号 アサノ東日本橋ビル1階
設 立:2015年11月25日
サイト:https://tfnmobile.com/

 

 

次回後編のインタビューでは、
・事業売却について
・社風、文化について
・ベンチャーエコシステムの実現について
・「ベンチャーエコシステムの実現」について
・10年後の理想の姿
などについてお伺いしています。

後編もぜひご覧ください!

 

 

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—近藤—僕が面白いと思えるかどうかが、活動の軸になっています。面白いと思わせてくれる場所であれば、積極的にやっていきたいと思っています。 高坂鶏という食材自体が今、非常に注目されている食材なので、それを使わせていただけているということ自体が本当にありがたいです。高坂さんという生産者の方が、僕のことを認めてくださって「メインで使っていい」と言ってくださっているのは、本当にありがたい話だと思っています。 —杉原—その高坂鶏は、焼き鳥店でもなかなか仕入れさせてもらえないほど貴重だと伺っています。近藤社長は、なぜ仕入れることができたのでしょうか? —近藤—本当にたまたま、知り合いの焼き鳥店に紹介していただいたのがきっかけです。僕はもともと何にでも興味を持つ性格で、高坂鶏のガラがあるなら使ってみたいと思って、骨だけ分けていただいて使い始めました。 ところが最初は全然美味しくならなくて。焼き鳥でいただいた時は間違いなく美味しいとわかっていたのに、スープにすると全く違う結果になってしまって、なぜだろうとずっと考えていました。素材が良ければすぐに美味しくなるだろうと思っていたのですが、実際は全然そうではありませんでした。そのことを周囲に話していたら、それがたまたま高坂さんの耳にも入ったようで。 そこから1か月、2か月、3か月と、かなり長い期間、試行錯誤を重ねました。最終的には、見た目は出汁を取っているような色をしているのに、すっと体に入っていってもたれないスープが完成しました。シンプルに考えると、肉と油のバランスをしっかり整えてあげることが、美味しさの本質だったんです。そこを高坂さんに理解してもらい、認めてもらう結果となりました。 —杉原—その分解の作業を経て、今では高坂さんとの仕入れの関係もしっかり築かれているわけですね。ベンチャー企業あるあるで、「あの人に助けられた」「あの方との出会いが転機だった」という話をよく伺いますが、人との出会いというのは本当に大きいですね。 —近藤—本当にそうだと思います。人間が変わるタイミングというのは、人と出会った時にしかないと、僕は師匠から教わりました。自分1人で「明日から変わろう」と思っても、なかなか変われないものです。それくらい人間は弱いものですが、変わる瞬間というのは、強烈な人との出会いがターニングポイントになることが多くて、僕自身の人生も、いくつもの交差点でそういうターニングポイントがありました。 ☆インタビューアーD-POPS GROUP アドバイザー 杉原 眼太 【麦と麺助】オーナー:近藤佑介所在地:大阪府大阪市北区豊崎3-4-12開業:2018年5月19日(2016年4月、姉妹店「燃えよ麺助」を大阪・福島にオープン)姉妹店:燃えよ麺助(大阪・福島)、なにわ麺次郎各店舗(大阪・難波&梅田) Part3では、 ・ラーメンという日本食の国際展開の可能性・ブランドを活かした他業界とのコラボレーション・飲食店経営で1番大切にすべきこと・D-POPS GROUPが目指すベンチャーエコシステムへの共感・読者の皆様へのメッセージ などについて伺っています。Part3もお楽しみに!
  • INTERVIEW
2026.09.15
行列の絶えないラーメン職人が語る、繁盛店が育つ土壌のつくり方|ミシュランガイド7年連続選出「麦と麺助」近藤佑介氏インタビュー~Part1~
【このパートについて】 全3回にわたるインタビューの第1回となるPart1では、大阪・中津の行列店「麦と麺助」が7年連続でミシュランガイドのビブグルマンに選出された率直な感想、近藤佑介氏がラーメン店を始めるまでの遠回りの道のり、看板メニューであるホロホロ鳥のスープに込められたこだわり、そして味を完成させるまでに重ねてきた試行錯誤についてお聞きしました。(このインタビューは2026年7月に実施しました。) ◆ 7年連続「ビブグルマン」— 率直な喜びと海外からの支持の広がり —杉原— 本日は、2020年から2026年まで7年連続でミシュランガイドのビブグルマンに掲載されているラーメン店「麦と麺助」を経営されるオーナー、近藤佑介様にお話を伺います。 まず最初に伺いたいのですが、経営されている大阪・中津の行列の絶えないお店「麦と麺助」、この春、2026年版のミシュランガイドでもまたビブグルマンに選出されましたね。これで7年連続とのことで、おめでとうございます。率直な感想をいただけますか? —近藤— まずはほっとした、というのが正直なところです。ミシュランの評価というのは、来てくださっているお客様への評価のおまけのご褒美のようなものだと思っていて、応援してくださっている方、何時間も並んでくださる方に対して、良かったなという気持ちが1番大きいです。 —杉原— 「麦と麺助」は、行列がすごいですよね。 —近藤— ちょっとやりすぎだなと思うくらいです。シーズン的なものもかなりありますが、本当にありがたく、自分が想像していたところを超えて待っていただいている状況です。 —杉原— 驚くのが、日本人にとってはお店に並んで食べるのはもう当たり前の感覚ですが、拝見していると3分の1くらいは台湾や香港など、海外のお客様に見えます。 —近藤— これもありがたい話で、海外の方に「このお店は韓国で1番有名ですよ」と言われたり、先日もタイのYouTuberの方が知らないうちに紹介してくださっていて、それをきっかけにタイの方が一気に増えたりと、僕の知らないところで勝手に広がっていっているという感覚があります。 中津にある『麦と麺助』 —杉原— ミシュランの星を、まるで世界遺産巡りのように追いかけている方もいますよね。それはそれで素晴らしいことですが、本当にラーメンの味がわかっているのかなと日本人としては思ってしまう部分もあって、インフルエンサーの方が「これはおいしい」と発信してくれているのかもしれません。 —近藤— 東京の醤油文化のラーメンは、醤油の香りがしっかり立っているものが美味しいとされていて、外国の方にとってはその塩気の強さが少しとっつきにくいところがあるようです。 一方で、世界の方にとっては関西の出汁醤油の方が美味しいと感じてもらいやすいのではないかと思っています。塩のエッジを強く感じさせすぎないように作っているので、それが海外の方にも受け入れやすいのかなと感じています。 もっと本質的な、根本的なところで言うと、人間はカロリーが高いもの、油分や糖分が多いものを美味しいと感じる生き物だと思うんです。極端な話、10キロカロリーのチーズと500キロカロリーのチーズなら、後者の方を美味しいと感じるように。 そう考えていくと、味覚というのはルーツの違いこそあれ、根本的にはそこまで大きく変わらないのかもしれないと思っています。もちろん、パクチーのように僕らが普段使わない食材は受け入れにくいということはありますが、基本的には素直によい食材の旨味を重ねて、油分を加えていくことで、多くの人に美味しいと感じてもらえるのだと思います。 ◆ 「手に職」から始まった、遠回りだらけのキャリア —杉原— では次の質問に移らせていただきます。「麦と麺助」はミシュランの常連店であり、姉妹店の「燃えよ麺助」も食べログ百名店に9年連続で選出されています。ラーメン界の巨匠と伺ったこともあります。近藤社長はいつ頃、どのような理由や経緯でラーメン店を始めることになったのでしょうか? —近藤— 僕の人生は、決して順風満帆な人生ではなくて、どちらかというと遠回りの多い人生だったと思います。大学を卒業したあと、まずは会計士を目指していました。 朝から晩まで勉強して、2年ほど真剣に取り組んだのですが、全く試験に通らなくて。もともと会計士を目指した理由も、これがやりたいというよりは手に職をつけたいという程度の動機だったのですが、それでも「頑張ればできる」とどこかで自分を信じていたところがあったんです。それが全く通らないとなって、これはまずいぞと思っていた時に、たまたま同い年でホテルのイタリアンで6、7年働いていた友人が独立したいと言い出して、「前に会計や簿記をやっていたから、経理ができるだろう」と誘われました。実際にはできないんですが、「そこだけ手伝ってほしい」と言われて、飲食業界に足を踏み入れることになりました。 飲食の道に携わることになったのは、シェフとしてではなかったのですが、それが意外と面白かったんです。飲食業は、その人が作った料理を提供して「美味しい」と言ってもらえる、サービスとしての面白さがありました。もちろん最初は、立っているだけなのに偉そうだとお客様に言われることもあって、悔しい思いもしましたが、そこから飲食をやりたいという気持ちが芽生えていきました。 ただ、そこから1年半ほど経った頃、そのシェフに子供ができて、実家が福井のお寺だったこともあり、「跡を継ぐために帰る」と言われてしまったんです。お店をそのまま譲るからと言われたのですが、正直、退去費用の心配の方が先に立ってしまって、どうしようと悩みました。結局レトルトのような簡易な形でお店を続けようとしたのですが、お客様が離れていってしまって、これはだめだと痛感しました。 その後たまたま見つかったのが和食のお店で、そこで働かせてもらうことになりました。さらにその時に知り合った社長さんから「経理ができるなら、経理だけやりなさい」と言われて、3年ほど経理担当としてサラリーマン生活を送っていました。30歳の時に、このままでは40歳になった時に後悔すると思い、「自分は何が好きなんだろう」と自問した結果、出てきたのがフットサルとラーメンでした。 ラーメン屋をやったら何とかなるかもしれないと思ったのですが、実は自分でラーメンを作ったことは一度もなかったんです。イタリアンのレストランでも、料理はほぼ作っていませんでしたから。ただその少しだけ手伝わせてもらった経験が本当に面白かった。それで、30歳の時に「よし、これをやってやろう!」と決めて退職しました。 親からしたらたまったものではなかったと思います。せっかくまともに働き出したと思ったら、辞めてラーメンをやると言い出したので。母は何でもやったらいいという性格でしたが、父は「大学まで行かせて何を言っているんだ」という反応でした。それでも、すでに引っ越しの手配まで済ませてから話をするような形で、なかば強行突破のように独立の道を歩み始めました。 ラーメンをやると決めてから、当時大阪で1番と言われていたお店に履歴書を1枚だけ持って「働かせてください」とお願いに行きました。「変わったやつだな」と言われながらも受け入れていただいて、そこで4年間修行させてもらいました。いまでも感謝してます。 最後の1年ほどは、僕を応援してくださるお客様も増えていて、ある意味プレ営業のような状態になっていました。結果として、その流れをそのまま引き継がせていただく形で独立することができました。 修行時代の最後の2年間は、本部のマネージャー的な仕事も任せてもらっていて、スーパーバイザーのような業務や、売上をどう伸ばすかという経営視点の仕事も経験させてもらいました。たまたま経理の勉強を会計士のために没頭していただけのつもりが、簿記の考え方や会計学は自分を物凄く助けてくれました。結果としてすべてが今につながっているという感覚があります。 —杉原— ラーメン作りだけでなく、経営という面での修行もそこでされていたわけですね。 —近藤— 当時は、そんなつもりで学んでいたわけではなかったのですが、振り返るとそれが今、しっかり生きています。 —杉原— サラリーマンから起業した経営者の方にも、最初は会社員として働いていて、そこでの経験の点と点がつながって今があるんだと語る方が多くいらっしゃいます。近藤社長の場合も、一生懸命やっているうちに、それがすべてつながっていったんですね。 —近藤— 本当にそうです。一生懸命やっていました。特に本部での2年間は、絶対に戻りたくないと思うくらい大変でした。朝8時前に出勤して、夜12時前に帰る生活を続けていて、正直、自分に才能があるとは思えないような日々でしたが、やりきろうと思っているうちに独立できるところまでたどり着きました。 ◆ ラーメンの「枠のギリギリ」を攻める — ホロホロ鳥という差別化戦略 —杉原— では、ラーメンそのもののお話に移らせてください。ラーメン好きの読者の方も多いと思うので伺いますが、「麦と麺助」で提供される看板ラーメンは、フランス料理などでお馴染みのホロホロ鳥を材料として作られたスープが最大の特徴だと伺っています。私もいただいたことがありますが、珍しくスープを飲み干せるラーメンでした。このホロホロ鳥という食材は、味わいを作るうえでやはり重要な存在なのでしょうか? —近藤— はい、重要な食材です。福島の「燃えよ麺助」が鴨で、「麦と麺助」がホロホロ鳥というように、それぞれのお店で使う食材を変えています。最初から差別化というところは強く意識していて、単に「美味しいラーメンを作りました、いい食材をたくさん使っています」と言われても、僕がお客さんの立場だったら正直あまり惹かれないんです。 ラーメンという枠組みの中で、1番端っこにあるギリギリの食材は何だろうと考えていました。ラーメンの枠を超えてしまってはいけない、例えばワニ肉のようなものでは、多分誰も食べたいと思わない。日本人のルーツにある「美味しい」という感覚の延長線上にある食材を1つフィーチャーすることで差別化を図る、というのが、福島のお店で鴨を使った理由の1つでもあります。醤油、味噌、豚骨という分け方が一般的だった時代に、うちは鴨、しじみ、ホタテという素材そのものにフォーカスしたラーメン屋という位置づけを作ったつもりです。 —杉原— 1つのお店で情報を出しすぎない、というのもポイントなんですね。 —近藤— その素材にフィーチャーしたラーメン屋というのは、当時はあまりなかったと思います。もう1つ、僕自身が飽き性だという理由もあって、鴨のラーメンを福島でヒットさせたなら同じ路線を続けてもよかったのですが、それだと飽きてしまう。それで考えた結果、フランス料理のメインディッシュになるような食材は何だろうと調べていきホロホロ鳥という、正直よくわからない食材にたどり着きました。実際に食べてみたら美味しかったので、これでやってみようというノリで始めました。 —杉原— それはトッピングの肉やチャーシューとしてではなく、スープに使うべきだという発想だったのですか? —近藤— スープに使うのはもったいないという声もあるのですが、やはり全然違うんです。油の軽さやコクの深さが、一般的な鶏とは少しずつ違っていて、スープに突き詰めて使うことで他のお店とは全く違うものになるのではないかと考えました。 ホロホロ鳥の丸鶏そのままを、肉から全てスープに使うというのは、おそらく今でもうちくらいしかやっていないと思います。コストが合わないからです。 また、ちゃんとルーツもある食材で、もっと遡ると『雉肉』は平安時代あたりから貴族の贅沢品として食べられていたようです。豊臣秀吉が鴨を好んでいたという説から「鴨難波」という言葉が生まれたという由来もあるくらいで、日本人と鴨・雉のような食材には、意外と深いつながりがあるのだと思います。 ◆ 「完成」はいらない — 現場の反応から生まれる改善 —杉原— この究極のラーメンというのは、完成してから提供を始めたのか、それとも日々お客様に提供する中で、だんだん今の味に近づいていったのか、どちらだったのでしょうか? —近藤— 完全に後者です。ある程度美味しいものができた段階でスタートして、僕はお客様の反応を見ながら味を寄せていくタイプなので、現場の顔を見ながら「こちらの方が良かったかもしれない」というのを選び取っていく形です。何回リメイクしたか数えきれないほどで、100や500では全然きかないくらいリメイクを重ねています。 お塩の量を考えるとわかりやすいのですが、実は塩の種類を変えただけでも、同じグラム数なのにミネラル分の違いでまろやかさが変わったりします。そういう繊細な違いを、日本人のお客様は特に感じやすいので、さらに美味しくなるように日々試行錯誤を重ねています。 —杉原— それはお客様に直接聞くというより、表情を見て判断するのですか? —近藤— もちろん直接聞くこともありますし、食べてくださっている様子を見ることもあります。結果として、そのラーメンが美味しいから偉いのではなく、お客様に求められているから価値がある。求められる数が増えれば増えるほど、需要が大きくなっていくというのが基本だと思っています。 —杉原— これは特にベンチャーステージの企業とすごく重なる話です。走りながらプロダクトを提供して、フィードバックを得て、また改善するということの繰り返しで、軌道に乗るまで、狙ったお客様に深く浸透するまでの間、何度もトライアンドエラーを重ねるという話がありますが、ラーメン店もまさにそうなんですね。 —近藤— ラーメン店に限らず、あらゆるビジネスに共通することだと僕は思っています。美容師であっても、アプリを作る会社であっても、ラーメン屋であっても本質的には一緒で、基本的には需要が発生する形にどう持っていけるかが重要だと思います。 実際、面白いデータがあって、有名レストラン出身のシェフが独立した場合、味は間違いなく美味しいので、成功率で言うと9割くらいありそうですが、実際には4割ほどが数年で失敗してしまうというものがあります。それだけ味以外のビジネスの部分に目を向けていないと、味だけが完成していてもうまくいかないという、わかりやすい事例だと思います。求められているものを置いておきつつ、それ以外の部分は環境に合わせてどんどん変えていく方が、結果的に生き残っていく。自分のやりたいことを押し通すスタイルはやはり長続きしないのだと思います。 もちろん、語れるだけの知識や技術の裏付けは必要ですが、メインはあくまでお客様が求めるものを作っていく、自分のお客様ならこれを食べたいだろうというものを作っていく、というのがベースにあります。 ☆インタビューアー D-POPS GROUP アドバイザー 杉原 眼太 【麦と麺助】 オーナー:近藤佑介 所在地:大阪府大阪市北区豊崎3-4-12 開業:2018年5月19日(2016年4月、姉妹店「燃えよ麺助」を大阪・福島にオープン) 姉妹店:燃えよ麺助(大阪・福島)、なにわ麺次郎各店舗(大阪・難波&梅田) Part2では、 ・一流の料理人から学ぶという姿勢 ・行列店ならではの経営とコストのリアル ・多店舗経営とブランドの育て方 ・麻布台ヒルズのポップアップストアと希少な高坂鶏との出会い などについて伺っています。Part2もお楽しみに!
  • INTERVIEW
2026.09.10
大手企業との信頼を積み重ね続けるopzt赤松文則社長に聞く、人が育つ人材派遣ビジネスのつくり方【Part2】
【このパートについて】 全2回にわたるインタビューの最終回となるPart2では、赤松社長のバンドマン時代の経験や起業のきっかけ、組織づくりへのこだわり、大病をきっかけに立ち上げたエンタメ事業、そしてディ・ポップスグループへのM&Aの経緯やベンチャーエコシステムへの共感、5年後のビジョン、読者へのメッセージについてお聞きしました。(このインタビューは2026年8月に実施しました。) ◆ 「バンドマン時代」の経験が経営に活きている —杉原— 事業の話から少し離れて、社長のキャラクターを深掘りさせていただきたいと思います。元はバンドマンだったという話を聞いたことがあるんですが、本当ですか? —赤松— はい、本当です。若い頃はベースを弾いていて、会社経営とは全く違う世界にいたんですが、バンドも一人だけ上手ではチームとしてまとまらないので、結構会社経営と似ている部分もあるのかなと思います。 それぞれ個性もありますし、能力もあります。でも、一つのステージを作るという意味では、会社経営も一緒なのかなと。 —杉原— チームワークやバランス感覚を、音楽の分野で長く経験されていたんですね。その頃のバンドマンとしての経験は、社長業に役立っていますか? —赤松— そうですね、わからないですけどね。ライブでお客さんの反応を見ながら、相手が何を求めているかを感じ取る、という感覚は活きているかもしれません。 —杉原— 確かに。大手企業と取引をするには、空気を読めないと無理ですものね。 ◆ 「納得できる会社をつくる」――opzt創業の原点 —杉原— 最初に少し触れていただきましたが、改めてお聞かせください。opztを起業したきっかけと、創業から13年間を振り返った今のご感想をお聞かせください。 —赤松— 元々の起業のきっかけは、大きな会社、大企業を作りたいという計画があったというよりは、自分自身の責任で事業をやって、自分たちが本当に納得できる会社を作りたいという、割と志が低めの起業ではあるんです。壮大なビジョンはありませんでした。 本当に20年ぐらい前の人材業界は、超がつくブラック企業が多く、その中で働きながら、もっと働く人を大切にしたらいいのではないか、お客様にももっとクイックに柔軟に対応できる会社ができるのではないかと、ふつふつと感じる部分があったので、2013年に創業したというのが元々の経緯になります。 この13年を振り返ると、本当に会社の売上や規模以上に、人とのご縁でなんとかここまで来られたという感覚が大きいですね。 —杉原— 壮大な大企業を作るというより、具体的な計画がないまま起業してうまくいかない社長もいる中で、本当に理想の職場をみんなに提供したいという思いと経験から始まっているというのは、素晴らしいですね。 私自身、以前勤めていたシステム会社にエンジニアになるつもりで入ったのに、結局昔は派遣業だったんです。自分の上司なんて半年に1回ぐらいしか顔を出してくれなくて、派遣先の工場でずっと仕事をしていたんですが、あの頃は単価としてしか見られていなかったんです。現場ではすごく評価されていても、給料には全然反映されない。そんな時代でしたよね。結局、3年で辞めてしまいました。(笑) —赤松— 本当にそうです。僕らも、派遣スタッフに有給を取らせるなとか、人が足りなければ道端で声をかけてこいとか、そういう時代でした。 数字だけで見られて、もっと残業させろとか言われて。無茶苦茶な時代でしたね、本当に。 —杉原— それに関連するんですが、創業時、創業間もない頃から社員になっている方が長く続けられている印象があります。組織作りや会社運営の面で、人に関してこだわりや心がけていることがあればお聞きしたいです。 —赤松— 本当に、単純に感謝しかないというか、長く働いてくれる社員が多いので、本当にありがたいなと思っています。 大切にしているのは、社員を単なる役職や数字だけで見ないということです。人それぞれ得意なこと不得意なことがありますし、営業が得意な人もいれば、管理が得意な人もいます。同じ型にはめるのではなく、それぞれが活躍できる役割を作ることを意識しています。 また、創業メンバーだけで意思決定するのではなく、新しく入った人にもきちんと機会を与えて、次の経営人材や責任者を育てていきたいという思いがあります。そういった昔ながらの良さを残しつつ、属人的ではなく、仕組みで動く組織に変えていくということを意識してやっています。 ◆ 拠点を管理せず、経営者を育てる――複数拠点のマネジメント哲学 —杉原— 私自身、渋谷ヒカリエに拠点を置く東京のopztチームの皆さんとよくお会いします。東京のopztチームの皆さんは、社長がいらっしゃらなくても本当に真面目に、和気あいあいと、真剣さもありながら冗談を言い合いながら明るく雰囲気よく仕事を回されているんですよね。先ほどお話にあった名古屋、四国、九州と点在しているオフィスの中で、スタッフや社員の方々がどうしてそんなに自主自立してしっかりと仕事をされているんでしょうか? —赤松— そうですね、各拠点を細かく管理しすぎないというのが、実はキーになっています。地域によってお客様や採用のマーケットもまったく違うので、本社の成功パターンをそのまま押し付けてもうまくいかないというのが過去にありました。 東京のチームが自走できているのも、現地のメンバーが自分で考えて意思決定し、結果にコミットしてくれているというのが大きいと思っています。拠点を管理するというよりは、拠点の経営者を育てる感覚に近いですね。 —杉原— 凄いですね。みんな本当に自分が経営者だという雰囲気で、東京の成績を上げるんだと動いているんですね。 ◆ 大病が教えてくれたこと――エンタメ事業「SELEBRO」誕生の背景 —杉原— 話は変わりまして、赤松社長はopztとは別にエンタメ系の事業をされているとのこと。こちらはopztの後に立ち上げられたんですよね、「SELEBRO」という会社ですね? —赤松— そうですね。今、「SELEBRO」という会社で、ライブハウスやナイトクラブ、アーティストのマネジメント、音楽フェスなどのイベントの企画を行っています。 ビジネスモデルとしては、本当にがっつりエンタメとテクノロジーを合わせたような、エンタメテックのような事業もやっています。opztとは別で、本社も大阪でここではないんですが、元々私自身が音楽やエンタメが好きだったというのもありますし、きっかけとしては、僕自身が脳動脈解離という病気になって入院したことが大きいです。 2018年の12月にディ・ポップスグループにジョインをして、その半年ほど後、2019年の6月か7月頃です。本当に突然のことで、病院に行ったらすぐに入院してくださいと言われて。本当に深刻な状況で、もう明日死ぬかもしれない状態で1ヶ月過ごしました。 そこで人生観が180度変わったというのが大きいです。それまでは自分自身の未来はまだまだあって、根拠もなく80歳、90歳ぐらいまで生きて死ぬんだろうと勝手に思っていたんですが、それがひっくり返って。音楽もいつか将来、長い人生のどこかのタイミングでチャレンジできたらいいなと漠然と考えていたんですが、病気を経験してから、いつかではなく、いつ来るかわからないので、人生の最後にあれをやっておけばよかったという後悔だけはしたくないと思うようになりました。 そういう心持ちでいると、昔の音楽の縁や、すごくいい場所ができたりと、引き寄せのようにどんどんそういう巡り合わせがあって、これはもうやるしかないなと思いました。代表の後藤さんにもちゃんと話をして、「こういうことをやりたいんです」と伝えました。ただし、「opztもちゃんとやるならいいよ。」ということで、中途半端にはやってほしくないという話をいただきました。 ちなみに病気は治りました。結局、手術には至らず、その後は回復して、今は健康に過ごせています。 今は第二の人生を生きている感覚があります。やりたいことを「いつか」に先送りしないようになりました。 いつ死ぬかわからないので。 ◆ 会社の個性を尊重してくれた――D-POPS GROUPを選んだ理由 —杉原— 病気のことまでお話いただいてありがとうございます。大変なご経験をされたんですね。2018年にM&AでD-POPS GROUPにジョインしていただきましたが、その経緯や、いくつもオファーがあったと思う中で、ディ・ポップスグループを選んでいただいた理由をお聞かせいただけますか? —赤松— 当時、会社は5年目ぐらいで、10億円にいくかいかないかぐらいの規模感だったんですが、一定の規模まで成長していく中で、次のフェーズに進むためには自分たちだけでは持てない経営資源や知見が必要だと思うようになったのが、最初のスタートでした。 順調に成長していたので、いろいろな企業からお話をいただいたんですが、単純に会社を買収するという考え方ではなく、経営者である私自身や会社の個性をしっかり残しながら一緒に成長していくという、D-POPS GROUPの考え方と、後藤さんの人柄に魅力を感じたというのが理由です。 M&Aをした仲間も多いんですが、結局グループ入りした後に経営方針が変わったり、創業経営者が経営から離れるケースも多々見てきたので、そういう意味でも、ディ・ポップスグループは引き続き私自身が経営をさせていただいていますし、opztの文化や強みを尊重しながら成長させてくれています。優しく見守ってくれているというのがすごくいいなと思っています。 本当に、条件面などではなく、誰と一緒に経営するか、グループ入りした後に社員が前向きに働けるかというところを重視して選んだという感じです。 —杉原— その時の期待通り、10億円ぐらいの規模だった会社は、この6年間で大きくなりましたよね。経営体制が変わらないまま、後藤社長やディ・ポップスグループの経営会議などからの学びは結構ありますか? —赤松— そうですね。本当にいろんな面で日々勉強させていただいていますし、今もメンターシップもいただいていて、日々勉強させてもらっている感じです。 ◆ 「グループから次々と経営者が生まれる」ベンチャーエコシステムへの共感 —杉原— 素晴らしいです。では最後に、「ベンチャーエコシステムの実現を目指す」をスローガンにしているディ・ポップスグループですが、この目標に共感する部分や、エコシステム作りを意識した活動などがあればご紹介ください。 —赤松— たくさんあるんですが、特に共感するのは、一社だけが成功するのではなく、グループ内から次々に経営者や新規事業が生まれていくという考え方です。 僕自身も創業経営者として、会社を大きくすることだけが目的ではなく、社員の中から次の事業責任者や経営者が生まれ、その人がまた新しい会社や事業を作っていく、そういう循環する環境を作りたいと思っています。 opztでも、各拠点に権限と裁量を与えて、小さな会社を経営する感覚で拠点運営をやってもらっています。その事業で生まれた人材や資金、信用を次の事業に循環させていくというところが、ベンチャーエコシステムにつながるのではないかと考えていて、そこにすごく共感しています。 —杉原— opztさん自身の中でも、エコシステムができているようなイメージですね。 —赤松— そうですね。規模はまだ小さいですが、通ずる部分があると思っています。 ◆ 5年後、人とテクノロジーで企業の成長を支える会社へ —杉原— 5年後のopztはどのような姿、あるいは具体的な目標があれば教えてください。 —赤松— 5年後は、先ほども出た通り、単純に人材を派遣するだけの会社ではなく、人とテクノロジーを組み合わせて企業の成長を支援していくような会社になりたいと思っています。引き続き派遣事業は大きな基盤でもあるので、しっかりここはやりつつ、AIやデータ、データセンター領域の比率をより高めていきながら、専門性と収益性の高い事業構造に変えていきたいと思っています。あとは、社員やスタッフがきちんと成長して、お客様から長く必要とされること、適正な利益を出しながら新しい事業に投資できるくらいの会社にしていきたいと思っています。 ◆ 読者へのメッセージ —杉原— では最後に、読者の方に一言、何でも結構ですのでお願いします。 —赤松— opzt自体はまだまだ未成熟な会社ですし、これからAIをはじめテクノロジーもすごいスピードで変化していくと思いますが、当社としても過去の成功にとらわれず、新しいことにチャレンジしたいと考えています。仕事を探している方がもしこの記事を見てくださる機会があれば、今の経験だけで自分の可能性を決めてほしくないなと思っています。今経験がなくても、学んで挑戦することで新しいキャリアを作ることができますし、企業の方が見てくださっている場合は、人材の紹介だけでなく、組織作りや業務の改善、新しい事業の挑戦についても一緒に考えられるパートナーでありたいと思っていますので、少しでも興味を持っていただけたら、お気軽にお声がけください。 —杉原— 素晴らしいです。ありがとうございました! ☆インタビューアー D-POPS GROUP アドバイザー 杉原 眼太 【opzt株式会社】 代表者:代表取締役 赤松 文則 所在地:大阪市中央区本町4-2-12 野村不動産御堂筋本町ビル5階 設 立:2013年9月10日 コーポレートサイト:https://opzt.net/ Part1はこちらからご覧ください!
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2026.09.03
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